ブランド品を高価買い取り。

シャネル chanelを高価買取り致します。

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TKUテレビ熊本 から取材されました。
ぴゅあピュアの6時のニュースに出演。
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シャネル
シャネルは、ルイ・ヴィトンエルメスと並び最高級のラグジュアリーブランドとして
広く認知される最高峰ブランドです。ただ、ヴィトンやエルメスとは
少し違うイメージを持っていますなぜかというとヴィトンやエルメスというのは、
シャネルより少し歴史が長いですが、もともとが王侯貴族などの御用達ブランドだった
ところからきているに対し、シャネルはココ・シャネルという孤児院出身の女性デザイナーが
たった一人で築き上げてきたブランドだというところです。そして、ファッションの
歴史を根底から覆すような数々の革新的なアイデアを実現、浸透させ、
そしてアイコンとして現代まで継承している稀有なブランドなのです。
すでにココ・シャネルはこの世を去っていますが、新しいシャネルの
顔となるカール・ラガーフェルドという人物がココ・シャネルの跡を継ぎ、
歴史を踏襲しながらも全く新しいシャネル作り上げているという点でもとてもユニークです。
が1910年にパリに帽子専門ブティックとして「シャネル・モード」を
立ち上げたのが始まりです。>1921年に世界で最も売れた香水シャネルの5番を生み出し、
その後もリトルブラックドレスやシャネルスーツといったアイコンとなるアイテムを
発表しその地位を築いていくのです。シャネルは「女性を解放した」という
表現をよくされますが、それはこのシャネルの生み出したファッションというのが
当時の上流階級の女性が着るドレスで当たり前となっていた腰をしめつける
コルセットを追放し、身も心もスッキリ軽く解放したからです。シャネルの生み出したものは、
こうした機能を重視し、その中に美しさを含み、そしてこれまでの常識をくつがえす
革新を行うことで成長してきたのです。こうやってみるととても順調に成長してきた
ブランドのように思いますが、かなりの紆余曲折を経て現在の地位を築いてきたことも
確かです。ブランド存続の危機も何度かあり、第2次世界大戦時には従業員のストライキも
重なって一時ココ・シャネルは引退に追い込まれいてます。この時はシャネルの大半の
権利を持つヴェルタイマー一族がアメリカで香水No.5を展開していたことでなんとか持ち
直しました。がアーティスティック・ディレクターに就任するまでの空白期間もシャネルブランドの
価値が暴落していました。 こうした危機を乗り越え、現在カール・ラガーフェルドが
シャネルを牽引し、次々と新しい価値を世に送り出すトップラグジュアリーブランドとして
君臨しているのです。シャネルのイメージというと人によって様々なだと思います。
最初に思い浮かぶのはマトラッセのチェーンバッグ?それとも香水? ココ・シャネル?
 最近だとカール・ラガーフェルド?ブランドロゴのCCマークを思いうかべる人も
多いでしょうシャネルというブランドには様々なアイコンが存在しています。
マトラッセのチェーンショルダーは、あの質感であればシャネルのものでなくてもシャネル風の
バッグと思ってしまうほど一般的に浸透しています。ブランドにとってはこうしたアイコンの
存在がとても重要で、見ただけでシャネルとわかるようなアイコンが数多くあるというのが、
そのままブランドの価値に直結する部分もあります。 シャネルであれば、
上に書いたマトラッセもそうですが、カメリアやバイカラーシューズ、「C」を2つ重ねた
ブランドロゴなど見ただけでシャネルと分かり、羨望と憧れのイメージを与えてくれる
アイコンがあります。シャネルは、アイコン的なイメージと女性らしいかわいいデザインだけで
はないんです。ラグジュアリーブランドとしてその価格に見合う「質」を兼ね備えています。
2002年にフランスの伝統技術を持つアトリエを5社をグループ化していて、シャネルの
オートクチュールはそうしたフランスの伝統的なハンドクラフトの技術をもつ工房に
よって支えられています。もちろんカール・ラガーフェルドの生み出すデザインというのも素晴らしいのですが、
こうした裏方の技術なくしてはシャネルのコレクションは成り立ちません。シャネルをはじめ、
一流と呼ばれるブランドの商品はなぜかいつも品薄だと感じることが多いでしょう。
これは、希少性による商品価値向上という意味合いもあるのですが、それ以上に
熟練の職人による手作業でひとつひとつの商品が作られているため、大量生産が
出来ないからなのです。ので、素材の質から縫製ひとつをとってみても全く別次元の
ものなのです。日本人はブランド物が大好きです。シャネルも例外ではなく、みんなの
憧れのブランドとしてそのブランドイメージを確立しています。洋服、バッグや財布、香水、
化粧品、時計などすべてが洗練されています。そんなシャネルですが、ひと昔前には
「シャネラー」という言葉もありました。全身をシャネルづくしにした主にティーンエイジャー層です。
雑誌「JJ」などで特集が組まれ、シャネルのイメージが誤った方向に走ってしまったことがあります。
この一件に関してはメディア規制をしてしまったシャネルの対応にも問題はありましたが、
一時的にシャネルのイメージが少し安っぽくなってしまったという問題がありました。
現在では「シャネラー」もほとんど死語になっていますし、きちんとメディア対応をしたことで
シャネルの本来のラグジュアリーなイメージを取り戻しています。日本におけるシャネルという意味だと、
化粧品などに関してはかなり日本向けに合わせているのはご存知でしょうか?価格は世界に
比べてもリーズナブルに設定されていて、開発も日本に研究所を作って行っています。
これは日本人より日本人らしいと評判のコラス社長の手腕でこうした日本に合わせる
対応をしているからです。シャネルの歴史というのは、1910年に創業者であるココ・シャネルが
パリで始めた帽子屋が起源です。ココ・シャネルという人物はかなり数奇な
人生を歩んだ女性デザイナーであり、実業家でもあったため、その人物像としても
大変興味深いものがあり、映画や書籍なども数々の公開がされています。立ち上げ当初は当然ですが
、資本があるはずもなく、時代も時代ですので手工業的な展開にとどまっていましたが、
1921年にシャネルの5番として今でも人気となっている伝説的な香水「No.5」生み出し、
ビジネスとして発展していきます。しかし、如何せん手工業では限界があるので、
ここで手を組んだのがピエール・ヴェルタイマーでした。パリの有名百貨店
「ギャラリー・ラファイエット」の創業者であるテオフィル・ベイダーの紹介で知り合ったのですが、
この出会いが後にシャネルの事業を引き継ぐことになるヴェルタイマー一族との最初の
コンタクトです。ピエールは、フランス最大の香水、化粧品企業のオーナーだったため、
資本力もあり、生産や流通ノウハウも持っていました。このピエールの支援をうけ
て1924年にシャネル香水会社を立ち上げたのです。その後、ヴェルタイマーが自社の化粧品
をシャネルブランドで販売し始めたことにココ・シャネルが怒り、シャネル香水会社を辞任に
するという形で軋轢があり、この和解までには相当な時間がかかっています。
こうしたいざこざはありながらも、シャネルは香水以外にも本来のクチュリエの仕事として
「リトルブラックドレス(LBD)」や「シャネルスーツ」といったシャネルの象徴ともなるような
人気アイテムを生み出していき、その名声を高めていくのです。第2次世界大戦の勃発に
より、ココ・シャネルは香水とアクセサリー部門を残してパリのブティックを閉鎖せざるを
得ませんでしたが、戦乱中もココはパリにとどまり、ヨーロッパにシャネルの香水を販売していました。
一方でアメリカに逃れたヴェルタイマーはアメリカでシャネルブランドの香水を
販売していました。第2次世界対戦中のこの時代というのは、2つのシャネルが
アメリカとヨーロッパに存在していたことになります。こうした状態がココ・シャネルと
ピエール・ヴェルタイマーの溝を一層深くする事にもなりました。感情論から見れば、
ココ・シャネル側が正当なシャネルだと思うところもありますが、実際のシャネルの
ブランドという観点で見るとヴェルタイマーはシャネル香水会社の株式の大半を
持っているわけで正当なシャネルブランドはどちらかと言われるととても難しいところでしょう。
ただ、香水「No.5」の原料となるジャスミンや薔薇のエッセンス、レシピを戦時中の
グラース地方からアメリカに退避したのはピエール・ヴェルタイマーであり、
これがなければシャネル自体がなくなっていたかもしれないし、アメリカでの
シャネルブランドの拡大にも大きく貢献したことは間違いありません。そして、
No.5の普及によってアメリカでの地盤が確立していたことにより、ココが1954年に
コレクションを復活させた際のブレイクの一因になっていることもまた確かでしょう。
第2次世界大戦が終了し、1954年にはココはパリのブティックを再開します。
このブティックの再開にあたり、なんとピエール・ヴェルタイマーからの支援を受けているのです。
ピエールからしてみれば、ココのクチュールの復活によって香水事業に対してポジティブな
影響があるという算段もあったのですが、とはいえ敵対していた2人が歩み
寄ったことによってシャネルというブランドが大きく軌道に乗り始めます。
この時に運が良かったのが、マリリン・モンローが「寝るときにつけるのは
シャネルの5番だけ」という発言があったり、故ジョン・F・ケネディ元大統領が暗殺された際に
妻であるジャクリーン・ケネディの着ていた服がシャネルのピンクのスーツであったりと
想定していないメディア効果があり、シャネルの露出が飛躍的に高まったのです。
アメリカにおけるシャネルの人気は爆発し、「シャネルルック」として定着していきます
ココ・シャネルの復活によってブランドの名声が高まったことに喜んだヴェルタイマーとは、
完全に和解することになります。この復活以降、ココはシャネルのアイコンともなっている
「チェーンベルトバッグ」や「バイカラーシューズ」といった名作を次々と生み出していき、
1971年に87歳でその生涯を終えました。そして、ココ亡き後のシャネルはヴェルタイマー一族が
100%の権利を所有する企業になったのです。ルイ・ヴィトンエルメスなど一貫した歴史を築いている
ブランドは創業者一族が経営を続けているのですが、シャネルにおいては
ココ・シャネルが天涯孤独であったため、こうした創業者とは全く違う一族が
実権を握るということになっているのです。ただ、このココ・シャネルの魂は次の世代に受け継がれていきます。
それが、カール・ラガーフェルドという天才デザイナーです。 

ココ・シャネル亡き後、カール・ラガーフェルドという天才デザイナーがシャネルの
デザインを一手に引き受けることになるのですが、ココが1971年に亡くなってからカールが
アーティスティック・ディレクターに就任する1983年までの間に空白期間が存在します
。この空白期間というのは、シャネルにとってはあまりいい時代ではありません。
ピエール・ヴェルタイマーはココが亡くなる6年前の1965年にはすでに他界しており、
その後を継いだのが息子のジャックでした。ジャックは、あまりシャネルのビジネスには
興味がなくラグジュアリーブランドとしてのシャネルのイメージを守るということを全く行わなかったのです。
経営者がこうした体たらくを見せていたため、シャネルのブランドイメージは
どんどんと落ちていき、アメリカで絶大な人気を誇り、アイコンともなっている香水
「No.5」でさえも2流の古くさいものだと思われるようになったのですこんな状態を覆したのが、
ジャックの息子アラン・ヴェルタイマーです。アランはシャネルブランドの危機的な状況に対して、
1975年に自らがジャックの後を継ぎ、シャネルブランドの再生に乗り出しました。
まずは「No.5」のドラッグストアからの撤去です。管理できない流通網には商品を流さないといのは
ラグジュアリーブランドの基本です。こうした基本的な対策とともに多額の広告費を
投じてブランドイメージの復興も行ったのです。そして、この時期に化粧品事業や
プレタポルテ事業にも乗り出したのです。 アランの活躍のおかげで、ココ亡き後のシャネル凋落の
危機をなんとか踏みとどまったのです。カール・ラガーフェルドという人物は、ピエール・バルマンや
ジャン・パトゥといったオートクチュールメゾンで仕事をした後、クロエ、フェンディと渡り歩き、
そして1983年にシャネルのアーティスティック・ディレクターに就任しました。いくらか持ち直してきていたとはいえ、
カールがシャネルに就任した時にはシャネルというブランドはまだまだ過去の
栄光にすがっているような状態でした。こんな状態のシャネルに対して、
カールはシャネルというブランドを利用して全く新しい価値を生み出そうとしたわけではなく、
ココ・シャネルを再生することを試みたのです。悪いのはブランディングであって
ココ・シャネルの魂ではありません。カールは当初は、オートクチュールのデザインを担当しました。
(すぐにプレタポルテやアクセサリーも担当するようになるが)カールの生み出すオートクチュールの
超高級シャネル・スーツをモナコのキャロライン王妃やヨルダンの王女、イヴァナ・トランプと
いった世界中の女性が憧れるようなセレブリティが愛用することによって、名声や
価値がブランドイメージへと波及していきました。オートクチュールで得た名声によって、
香水、革製品やアクセサリー、化粧品といったシャネルのポートフォリオにとてもよい影響を与え、
シャネルは香水のトップブランドへと返り咲いたのです。こうした成功があって、時計や靴、
コスメ、アクセサリーなどの新しい製品ラインを拡充していくことにもつながりました。
今私達が知っているシャネルは1980年代から90年代のカールとアラン・ヴェルタイマーによって
作られたということです。アランはカールを心から信頼しており、カールのやりたいように
やれるように全てを任せています。だから、ビジネスとして成り立たないように見える試みで
あっても長期的視点にたって実践することが出来るのです。経営者とデザイナーの
絶対的な信頼関係があってこそ、挑戦的・革新的な取り組みを実行できる基盤が醸成され、
皆が憧れるシャネルというブランドが形成されていったと言えますカール就任当初の
「シャネルは死んだ」と思われていた状態から、ブランドを作り直すのではなく再生するという
未だ誰も成しえてこなかった偉業をカール・ラガーフェルドは成し遂げたのです。
そして、現在ではカールはモード界の皇帝と呼ばれる存在になり、シャネルの今を力強く牽引しているのです。 


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